銚子電鉄の海鹿島駅で下車し、海岸方面に進み、丁字路を右折し、すぐ先の十字路を右折し、最初の十字路を左折すると海岸方面に行く。坂道を下り、しばらく進むと、右手に画家・小川芋銭(うせん)が長期に逗留した別荘「潮光庵(ちょうこうあん)」があり、その先に昭和46年(1971)に「房総夢二会」が建立した「竹久夢二詩碑」がある(歌人越川芳麿が「憲政の神様」尾崎行雄・咢堂のために建てた「思咢庵」美術館敷地内)。
この詩碑は、彫刻家・大須賀力(つとむ)が設計・製作したコンクリート製のもので、碑面には青銅製の夢二直筆の詩文と夢二の肖像がはめ込まれている。詩文には、
宵待草
まてど暮らせど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ/今宵も月も出ぬさうな
とあり、夢二が明治45年(1912)6月1日付けの雑誌『少女』に発表したものである。この詩を読んだバイオリン奏者で、作曲家の多忠亮(おおのただあき)が曲を付け、大正6年(1917)5月に第2回芸術座音楽会で初公演され、多くの人たちの心を捉え、現在でも歌われている不朽の名作である。
この「宵待草」のモデルになったのが、「面長で大きな眼の美しい顔立ち」の長谷川カタ(賢、賢子。夢二は「お島さん」と称していた)であるという。
カタは、明治23年(1890)10月22日に北海道松前郡松前町で、旧松前藩士の長谷川康の3女として生まれた。その後、カタは、父の実家の関係で秋田高等女学校(秋田県立秋田北高校)に通い、42年(1909)3月に卒業し、成田高等女学校(私立成田高校)で作法・国語・地理・歴史・英語を教えていた姉シマ(9歳年上)が住む成田市に来て、田町(現在重田家)で一緒に生活をしていた。
42年の年末、又は43年(1910)の初めに長谷川家は、銚子の海鹿島の「宮下旅館」の隣に転居した。
43年に19歳になったカタは、8月に夏休みを利用して実家を訪れた。この時、27歳の夢二は、前年に協議離婚したが、この年の1月から再び同棲をしていた岸タマキ(他万喜)と長男で2歳の虹之助と避暑のため、宮下旅館に滞在し、2人が出会ったという。夢二とカタは、度々散歩し、2人のことが村で評判になったという。
この2人の付き合いも、カタが夏休みを終え、成田に戻って行ったことにより、終わりを告げたが、その後、カタが東京の夢二の送った手紙には、
<月の下にそぞろ歩きし真砂路、涼風に相語りし松原、忘れがたうのみ過ごし居候。ことしはおもひもかけず御陰様にてたのしき夏をおくり申し候。(中略)(追伸)おひまもおはし候はば御手紙いただき度候。成田市成田十九(田町) 長谷川賢子>
とあり、2人で過ごした海鹿島での熱い思いが綴られている。
翌年の44年(1911)の夏に夢二は、再び海鹿島を訪れたが、そこにはカタの姿はなく、カタが結婚するということを知った。カタの父が2人の関係を知り、許嫁の和歌山県牟婁(むろ)郡新宮町(新宮市)出身の教師で、音楽家の須川政太郎との結婚を急いだことによるという。
夢二は、失恋の心を海岸に咲く「マツヨイ草」(月見草と同種で、群生して可憐な黄色い花を付け、夕刻に開花して夜の間咲き続け、翌朝には萎んでしまう)に托した「宵待草」という詩を作ったといわれている。
45年(1912)4月にカタは、須川政太郎と結婚し、鹿児島・京都・彦根・半田(愛知県)などで生活し、1男3女に恵まれ、穏和な日々を送り、昭和42年(1967)7月26日に愛知県知多郡美浜町の次女滋子宅で亡くなった。76歳で、新宮町南谷墓地で夫の政太郎とともに眠っている。
生前、カタは、夢二のことを話すことは少なかったといい、ある時、家人に夢二のことを聞かれ、「男の人が妻以外に女の人を持つことは、女にとって一番いやぁーね」とか、「そうね、今でいえば、ま、不良ね」と語ったという。
カタの子息の記録には、
<あれこれ思い起してみると、賢は夢二にある程度好意を寄せていたようだ。しかし、夢二の華やかな女性関係を耳にするにつけて、持ち前の潔癖さがひと夏のめぐり逢いに終わらせたのではないか。>
とある。
ちなみに、「宵待草」の発生地については、この海鹿島の他、九十九里浜、夢二の故郷岡山市の後楽園、会津若松、赤城山、東京上野の不忍池、京都の加茂川など、自薦、他薦で挙げられている。
また、「宵待草」の詩碑は、この海鹿島の他、会津若松市東山温泉の虚空蔵尊敷地内、同北会津町蟹川地区、九十九里町小関、千葉市若葉区野呂町の千葉東金道路野呂PAの文学の森、東京都中央区八重洲1丁目の安田信託銀行前、長野県下伊奈郡阿智村伍和の大庭百花館園内、岡山市後楽園前の旭川畔、同浜2丁目(佐井田)の夢二生家前、同高星神社の石段横、同山田庄のJR邑久駅前、北九州市八幡東区諏訪1丁目の宮川公園内にある。
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