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銚子市

2009年7月15日 (水)

ふらっと銚子めぐり(3)渡海神社

Photo 銚子駅から銚子電鉄に乗り、犬吠駅で下車。車中では30名の会員は観音駅で買った鯛やき(90円)をぱくぱく。まさに子供の遠足模様。子供の遠足の方がマナーが正しいように見える。

Photo_2 犬吠駅で多くの会員は濡れ煎餅を買い求め、バスで外川へ。ミニ郷土資料館で、館長さんから外川の歴史の説明を聞く。打って変わって大人の顔に。

その後は干物の買い物タイム。手に手にお土産を下げ、外川の漁業集落の散策。大杉神社を参拝の後、再びバスに。

Photo_3 最後は、渡海神社へ。元明天皇の和銅2年の外川の日和山(大杉神社境内)に創建されたといい、祭神は猿田彦大神・綿津見大神。

その後、津波で潰れたため、貞元元年に現在地に移したといわれ、渡海安全・大漁満作を祈るところになったといいます。

境内にはタブ・スタジイなどの樹木が生い茂り、銚子の天然記念物に指定されています。

2009年7月11日 (土)

ふらっと銚子めぐり(2)川口神社

Photo_3 幕張地元学同好会の仲間と銚子方面へ。

飯沼観音を参詣した後、千人塚へ。慶長19年に千人余の人が銚子湾で亡くなったのを供養するために築かれたといわれています。この日は、霧のため、遠くまでは見られず。

Photo_4 続いて、川口神社へ。なだらかな100段余りの階段を登ります。明治の初めまでは「白神(はくし)神社」と呼ばれ、祭神は速秋津姫尊で、海の守り神として漁師の信仰が篤いといいます。

Photo_5 参道にはこの地を訪れた吉田松陰を記念し、松陰の碑が建っています。

階段の途中がら振り返りますと、ほぼ直線に銚子漁港が目に入りました。

まさにこの神社は海の守り神であるということを実感しました。

2009年7月10日 (金)

ふらっと銚子めぐり(1)飯沼観音

Photo 幕張地元学同好会の人たちと「銚子めぐり」をしました。

貸切バスで幕張を出て、京葉道路から東金道路・銚子連絡道の横芝光町で国道126号を銚子へ。約2時間かかり、銚子市内に到着。

Photo_2 まず見学したの飯沼観音円福寺へ。以前、この寺を参詣したときには五重塔の建設中。その後、どうなったのか楽しむにして訪ねてみると、すでに完成し、朱色の立派な五重塔が完成していました。

ただ、朱色が目立ちすぎ、何かけばけばしい感じがしました。

2008年5月 8日 (木)

Magameつれづれ<第32号>おゆみ野歴史愛好会の銚子散策

きようは「おゆみ野歴史愛好会」の「銚子の散策~歴史の匂いをかぐバスツアー」に参加しました。当日は、千葉市のバスを使い(無料)、32名の参加者があり、銚子を案内しました。

当初は、まず魚市場を見学する予定でしたが、時間の都合でカットし、「ヒゲタ醤油」へ。私は何回か見学しているため、休憩所で。40分後ぐらいで工場見学が終わり、銚子駅へ。ここから「銚子電鉄」で犬吠へ。参加者が銚子駅で運転手に「たい焼き」を注文。何かテレビで見て知ったとか。27個を注文し、観音崎駅で受け取る。よく売れ、会員の多くは電車の中でパクパク。何か少年・少女時代に戻ったようである。

銚子電鉄は「ぬれせんべい」で有名であるが、たい焼きを車内で販売すると結構売れるのではないかと思いつつ、電車は犬吠駅に着く。ここからまたバスで灯台へ。運転手の紹介で、灯台を通り抜け、「君ヶ浜」を通り、おみやげ店の「嘉平屋」へ。創業が慶応3年の老舗。「磯あげ」を試食すると、結構美味しい。私はめったにお土産は買わないが、あまりの美味しさに1000円の詰め合わせを手に入れる。参加者の多くも次から次へと買い物が始まる。まさに「歴史の匂いをかぐ」というよりも、「お土産の匂いをかぐ」という様である。計画では海鹿島周辺と国木田独歩と竹久夢二の歌碑と見る予定であったが、2時30分には銚子を出てほしいとの運転手の要望で、ここもカット。無料のバスには制約も多い。8万円ぐらいかかるバス代がただである故、仕方がないのかも。運転手はいう。「計画書を見て、びっくりした」と。

バスはここから犬吠埼灯台へUタウン。大型のバスは駐車場が大変で、大型バスの駐車が可能な「犬吠埼マリンパーク」に。ここの2階の「海龍亭」で昼食を取る。1250円の天ざるそばセットを注文。腹が空いていたこともあり、ペロリと。

昼食後、外川へ。運転l手は、この大型バスでは海岸線の道は狭く、無理ということで、内陸の天王台から銚子道路に出て、外川へ行くことにする。バスの運転手は実に慎重で、言われた通りにし、無理押しはしない。

外川漁港の駐車場で降り、坂道を上り、「ミニ郷土資料館」へ。私はこれで4回目の訪問となる。館長さんは、午前中に人間ドックで胃カメラをのんだということで、いつもの精彩を欠く。しかし、簡単な説明を受け、外川の漁業集落を通り、漁港で待つバスへ。バスに帰る時間が2時30分ということで、集落をゆっくりと散策することが出来ず。碁盤目の街並みで、石垣も残り、見るに値するところであるが、帰り道を急ぐ。

2時40分に外川を出て、野呂PAで休憩を取り、予定通り4時30分におゆみ野公民館に到着し、解散する。

実に気ぜわしいバスツアーであったが、参加者は満足気である。私としては消化不良の面もあるが、これも千葉市の無料のバスを利用したため、仕方がないことか。

2007年12月14日 (金)

竹久夢二と「宵待草」のヒロイン、長谷川カタの出会いの場、海鹿島を訪ねて

12月12日に銚子の海鹿島に調査に出掛けました。竹久夢二と「宵待草」のヒロイン、長谷川カタが出会い、語り合った場所の現状を知るためです。

九十九里町は晴れたり、曇ったりでしたが、銚子が近くなると、快晴で、暖かになりました。銚子市の、かっての有料道路を進むと、右手には雄大な太平洋を眺めることが出来ます。実にすっきりしており、きれいです。

車が犬吠埼灯台脇をひた走り、君ヶ浜に出ました。海は穏やかにして、快晴。車の中は暑いぐらいです。

右手の海鹿島海水浴場を見ながら進むと、左側に「伊勢大神宮」があり、その脇に車を止めて、周辺部の調査を行いました。この附近を「字宮下」といいます。

海鹿島は、かって海岸の小岩のところに多くのアシカがいたことから、この名が付いたといわれていますが、正確には「伊勢地浦(伊勢路ヶ浦)」といいます。

伊勢大神宮については、元禄8年(1695)9月に濃口醤油の醸造を本格的に始めた田中玄蕃がこの地に湊を築き、納屋や干鰯場を設けましたが、このとき、玄蕃は、湊の工事を始めるに当たり、伊勢地の名にちなんで伊勢神宮を勧請して祀り、毎年9月9日を祭日に定めました。2度目の工事のとき、大神宮の祠を現在地に移し、新宮と旧宮を合わせた祀ったのが起こりであるということです。

小高い丘の上にある伊勢大神宮を、道路脇の細い階段状の坂道を登ります。平成13年6月建立の鳥居をくぐり、丘上を目指しました。登り切ったところに狛犬があり、その奥に石造りの本殿(昭和36年3月)があります。本殿がテントで覆われ、また、ここで火遊びをする人がいるようで、監視カメラが設置・作動しているのが異様でした。

大神宮を下り、「字宮下」にある「ちばこうバス『海鹿島』バス停」の左側に外川さん宅、その海岸寄りにトラック会社の駐車場があります。この外川さん宅の一帯が、かってカタの父母が住んでいた長谷川宅です。その敷地は、約200坪で、ここに木造瓦葺きの平屋が建っていました。内部は、別荘風で、間切りが少なく、30坪に満たなかったようです。現在お住まいの外川さんによると、家屋は30数年前に取り壊したといいます。

通り掛かった人から、「夢二のおめかけさんが住んでいた」との話を聞き、現地の人たちは、カタを「夢二のおめかけ」と捉えていたようです。

この旧長谷川宅の隣(海岸寄り)に、かって夢二が滞在した民宿のような「宮下旅館」がありました。のちに売却され、「天満屋」という料理屋になったといいます。現在は、コンクリートが敷き詰められ、駐車場になっていますが、敷地内の海岸寄りに古そうな石塔があり、これが宮下旅館の名残りかと思われます。

ここから海を見ますと、前が海水浴場で、右手に夢二とカタが登り、語り合った丸山(鉄炮台)があります。むかし、この海の付近にアシカがおり、村人がこの丸山から鉄炮で撃ったということから、「鉄炮台」と云われるようになったといいます。この丸山の頂上からは、広い太平洋と海鹿島の集落が一望できます。反対側には、犬吠埼灯台とその下に、夢二とカタが散歩した、白妙が続く「君ヶ浜」海岸が見え、絶景の地です。

この附近を、夢二とカタが人目を避けて、手を取りながら歩いていたのだ、との思いに馳せながら、海鹿島の地を後にしました。

2007年10月14日 (日)

Magameつれづれ(第14号)北大宮台歴史を知る会の銚子方面巡検記<Ⅱ>

食事処の「一山いけす」を出ると、バスはスムーズに進み、12時45分に銚子駅に着いた。「ここに『銚子電鉄のぬれせん』が売っています」と案内すると、参加者の殆どがお店やさんに殺到する。一部の商品がすぐに売り切れ。もっと買いたい人がいたのに。ここでも買い物ツアー状態である。手に手に「ぬれせん」の袋を持って構内へ。

13時8分、いよいよ全国的に有名になった「銚子電鉄」が、オランダ風の駅舎から出発する。座席は、我々の一団が乗ってほぼ満席状態。結構、観光客も乗っている。名物の「たい焼き」が話題となる。観音駅の売店を見て、参加者の何人かが「たい焼きが食べたい!」という。一旦、下車して買わなければならないことを知ると、「銚子駅で乗るときに『予約カード』を配布して注文を取り、下車する駅でお金と交換するようにすると、もっと収益が上がるのに」、「電車の中でも『ぬれせん』や『たい焼き』を売るといいのにね」と。「人件費かかるのでは?」というと、「アルバイトですよ。売り上げの何%という具合にすれば・・・・」、「まだまだ企業努力をする点がありますね」と、いろいろな意見が出る。

海鹿島駅で下車し、「国木田独歩・竹久夢二の詩碑」巡り。国木田家は、旧龍野藩脇坂家の家臣で、独歩の父専八が乗り込んだ龍野藩の川船・龍野丸が銚子沖で難破し、負傷したため、観音前の吉野屋旅館に滞在し、ここで女中をしていた淡路まんと知り合い、結ばれて生まれたのが独歩(幼名亀吉、後に哲夫)であったという。

竹久夢二については、明治43年(1910)夏に海鹿島の「宮下旅館」に滞在していたとき、この旅館の隣に長谷川康家があり、成田から帰省した19歳の「カタ」と知り合いとなり、毎日のように2人で海岸辺りを散歩したという。夢二は、カタへの淡い恋心を詩にしたためたのが「宵待草」であるといわれている。「宮下旅館」と長谷川宅は、「宵待草」歌碑から海岸沿いの道路に出てから左手に進み、「海鹿島町内集会所」の北側にあったが、現在は両方との取り壊され、他人の手に渡っている。

2人の文学碑を見た後、再び銚子電鉄に乗って終点の「外川」へ。参加者の多くが駅で「ぬれせん」を買おうとしたが、数が少なく、すぐに売り切れとなる。「商売が下手ね」とは参加者の声。

外川では、まず「ミニ郷土資料館」へ。館長さんに外川の歴史について説明して頂く。万治元年(1658)に紀州(和歌山県)から来た漁師の棟梁・崎山治郎右衛門が港を開き、南に面した海岸の傾斜地に碁盤目状の市街地を造り、紀州から大勢の漁民を呼び寄せたのが外川の集落の起こりであるという。

館長さんとスタッフの方の説明を熱心に聞いた後、「とうふ」屋さんに行き、おやつとしてヨーグルトの大納言を食べる。ここでも参加者たちは買い物。よく食べたり、買ったりする団体で、店屋さんも大忙し。店に出されていた商品の一部がなくなる。こんなに商品が売れたのは久しぶりでは?買い物をする人が多く、なかなか出発できない始末である。

やっと買い物を終え、碁盤目状の町並みを歩き、外川の鎮守・「大杉神社」へ。この一帯を「日和山」といい、常陸阿波(あば)村の大杉大明神を祀っている。銚子の漁師は、沖で亀を捕らえると酒を呑ませて海に帰した。これは、「ウミガメ」は竜宮城のお使いで、長命の象徴であることによるという。

この神社から10分ほどでバスが待つ外川漁港へ。両手にお土産を持つ人の多いこと。

3時30分に出発し、途中、「飯岡刑部岬」で休憩。かってこの沖合に「佐貫城」があったといい、崖下にこの城に仕えていた家老・鬼越刑部栄定の居宅があったことから、この名が付いたという。展望台から見る屏風ヶ浦、そして、南方の白砂の九十九里浜。実に絶景である。

この岬を出て、順調にバスが進み、5時30分、予定通り北大宮台に到着し、解散する。天気に恵まれ、隠れた史跡を見て、生きがよく、美味しい食事を取り、お土産も十分に手に入れ、楽しく、充実した1日でした。<終わり>

2007年10月13日 (土)

Magameつれづれ<第13号>「北大宮台歴史を知る会」の秋の銚子方面巡検記<Ⅰ>

10月12日(金)に「秋の巡検」で銚子方面に出掛けた。参加者は28名で、これまでの巡検では最も参加が多い人数である。集合時刻が7時50分、出発が8時であったが、5分前の7時55分に出発し、一路、銚子へ。

大宮ICから千葉東金道路に乗り、野呂PAでトイレタイム。巡検を計画するに当たって考えなければならないのは、まず途中のトイレ場所。有料道路では所々にPAやSAがあり、適当な時間に、適当な所でトイレタイムを取ることが出来るが、史跡・旧道散策のときにはこうした場所がない場合が多い。男性ならば草むらなどに入って済ませればいいが、女性はそうはいかない。このため、ついつい遠回りになることがしばしばである。

10分たらずの休憩で出発し、横芝光ICへ。途中、40~50kmのスピードで行く車があり、先が詰まっている。1車線のため、追い越すことも出来ず、我慢強く我々が乗ったバスは後を追う。横芝光ICを出て、国道126号で八日市場・旭へと進む。今日は車の数が少なく、比較的スムーズにバスが進む。

銚子市内に入ると、多分、お年寄りの車と思うが、30~40kmのノロノロ運転。途中で右手に入って行ったのでホッとする。その先は車がよく流れており、、9時40分頃に「千人塚」に着く。予定では、真っ直ぐ銚子漁港へ行くことになっていたが、早く銚子市内に着いたため、先にここに立ち寄る。かっては難所であった沖合も、堤防が造られ、大小の船が、ゆうゆうとここを通り過ぎて行く。

参加者の中には、この辺りに来た人もいるようだが、「ウオッセ21」の観光地に行くためで、この千人塚に立ち寄ったのが初めてという人が多い。我々の巡検は、観光地巡りというよりも、「隠れた史跡を見て回る」ことを第1の目的としている。15分ぐらいでここを去り、「銚子漁港第3魚市場」に向かう。

市場では、丁度、キンメダイ・サンマ・マグロ・ヒラメ・イワシなどが水揚げされ、取り引きをしている最中で、全国一の水揚げを誇る銚子漁港の市場は、活気に満ちている。この市場では、一般の人たちは魚を買うことが出来ないが、見物は自由で、魚の獲れる場所・値段・取引先などの質問には気軽に答えてくれる。どの人も親切で、分かり易く教えてくれるのが有り難い。

次は「ヒゲタ醤油」へ。予定では、到着が10時30分であったが、先に千人塚を見たため、10分遅れで到着する。ビデオを観た後、工場見学。私は先月に見学しているため、ゆっくりと喫煙場所でタバコタイム。佐倉の小学生も見学に来ていたが、係の人たちが手馴れているようで、テキパキと案内をしているのが印象的である。見学を終えた我々の一団が戻って来て、係の人から醤油を頂くと、早速、売り場でお土産買いが始まる。「千葉の人たちは、旅行に出掛けると、見学よりも買い物に忙しい」といわれるが、我々の一団も例外ではなさそうである。この巡検の2つ目の目的も、「巡検先で珍しいお土産が買える」ということにしている。

時刻は11時30分。ヒゲタ醤油で出て、昼食場所の「一山いけす」へ。予約は12時30分であったが、担当がバスの中から電話を入れ、11時50分到着にする。その甲斐もあり、到着すると、すぐに食べられる状態であった。昼食は、運営委員の女性たちが下見の折に注文したキンメダイの煮付け・刺身・サラダなど、店のメニューにはない組み合わせである。生きのいい魚料理に舌鼓み。食べることに熱中し、静寂の時間となる。私は参加者から刺身を頂き、ご飯のお代わり。お代わりの時点で、料理を全て食べてしまったため、刺身を食べない人からの差し入れで、他人のものを取った訳ではない。念のため。私だけではなく、参加者全員がこの食事に満足し、店を出て、海岸で記念写真を撮る。本会の巡検は、「昼は地元の美味しいものを食べる」というのが3つ目の目的である。<続く>

2007年9月21日 (金)

銚子市海鹿島(あしかじま)の「宵待草」詩碑~竹久夢二が淡い恋心を抱いた長谷川カタ~

銚子電鉄の海鹿島駅で下車し、海岸方面に進み、丁字路を右折し、すぐ先の十字路を右折し、最初の十字路を左折すると海岸方面に行く。坂道を下り、しばらく進むと、右手に画家・小川芋銭(うせん)が長期に逗留した別荘「潮光庵(ちょうこうあん)」があり、その先に昭和46年(1971)に「房総夢二会」が建立した「竹久夢二詩碑」がある(歌人越川芳麿が「憲政の神様」尾崎行雄・咢堂のために建てた「思咢庵」美術館敷地内)。

この詩碑は、彫刻家・大須賀力(つとむ)が設計・製作したコンクリート製のもので、碑面には青銅製の夢二直筆の詩文と夢二の肖像がはめ込まれている。詩文には、

 宵待草

 まてど暮らせど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ/今宵も月も出ぬさうな

とあり、夢二が明治45年(1912)6月1日付けの雑誌『少女』に発表したものである。この詩を読んだバイオリン奏者で、作曲家の多忠亮(おおのただあき)が曲を付け、大正6年(1917)5月に第2回芸術座音楽会で初公演され、多くの人たちの心を捉え、現在でも歌われている不朽の名作である。

この「宵待草」のモデルになったのが、「面長で大きな眼の美しい顔立ち」の長谷川カタ(賢、賢子。夢二は「お島さん」と称していた)であるという。

カタは、明治23年(1890)10月22日に北海道松前郡松前町で、旧松前藩士の長谷川康の3女として生まれた。その後、カタは、父の実家の関係で秋田高等女学校(秋田県立秋田北高校)に通い、42年(1909)3月に卒業し、成田高等女学校(私立成田高校)で作法・国語・地理・歴史・英語を教えていた姉シマ(9歳年上)が住む成田市に来て、田町(現在重田家)で一緒に生活をしていた。

42年の年末、又は43年(1910)の初めに長谷川家は、銚子の海鹿島の「宮下旅館」の隣に転居した。

43年に19歳になったカタは、8月に夏休みを利用して実家を訪れた。この時、27歳の夢二は、前年に協議離婚したが、この年の1月から再び同棲をしていた岸タマキ(他万喜)と長男で2歳の虹之助と避暑のため、宮下旅館に滞在し、2人が出会ったという。夢二とカタは、度々散歩し、2人のことが村で評判になったという。

この2人の付き合いも、カタが夏休みを終え、成田に戻って行ったことにより、終わりを告げたが、その後、カタが東京の夢二の送った手紙には、

<月の下にそぞろ歩きし真砂路、涼風に相語りし松原、忘れがたうのみ過ごし居候。ことしはおもひもかけず御陰様にてたのしき夏をおくり申し候。(中略)(追伸)おひまもおはし候はば御手紙いただき度候。成田市成田十九(田町) 長谷川賢子>

とあり、2人で過ごした海鹿島での熱い思いが綴られている。

翌年の44年(1911)の夏に夢二は、再び海鹿島を訪れたが、そこにはカタの姿はなく、カタが結婚するということを知った。カタの父が2人の関係を知り、許嫁の和歌山県牟婁(むろ)郡新宮町(新宮市)出身の教師で、音楽家の須川政太郎との結婚を急いだことによるという。

夢二は、失恋の心を海岸に咲く「マツヨイ草」(月見草と同種で、群生して可憐な黄色い花を付け、夕刻に開花して夜の間咲き続け、翌朝には萎んでしまう)に托した「宵待草」という詩を作ったといわれている。

45年(1912)4月にカタは、須川政太郎と結婚し、鹿児島・京都・彦根・半田(愛知県)などで生活し、1男3女に恵まれ、穏和な日々を送り、昭和42年(1967)7月26日に愛知県知多郡美浜町の次女滋子宅で亡くなった。76歳で、新宮町南谷墓地で夫の政太郎とともに眠っている。

生前、カタは、夢二のことを話すことは少なかったといい、ある時、家人に夢二のことを聞かれ、「男の人が妻以外に女の人を持つことは、女にとって一番いやぁーね」とか、「そうね、今でいえば、ま、不良ね」と語ったという。

カタの子息の記録には、

<あれこれ思い起してみると、賢は夢二にある程度好意を寄せていたようだ。しかし、夢二の華やかな女性関係を耳にするにつけて、持ち前の潔癖さがひと夏のめぐり逢いに終わらせたのではないか。>

とある。

ちなみに、「宵待草」の発生地については、この海鹿島の他、九十九里浜、夢二の故郷岡山市の後楽園、会津若松、赤城山、東京上野の不忍池、京都の加茂川など、自薦、他薦で挙げられている。

また、「宵待草」の詩碑は、この海鹿島の他、会津若松市東山温泉の虚空蔵尊敷地内、同北会津町蟹川地区、九十九里町小関、千葉市若葉区野呂町の千葉東金道路野呂PAの文学の森、東京都中央区八重洲1丁目の安田信託銀行前、長野県下伊奈郡阿智村伍和の大庭百花館園内、岡山市後楽園前の旭川畔、同浜2丁目(佐井田)の夢二生家前、同高星神社の石段横、同山田庄のJR邑久駅前、北九州市八幡東区諏訪1丁目の宮川公園内にある。

2007年9月17日 (月)

高村光太郎と智恵子の犬吠埼での再会の偶然性について

大正元年(1912)8月に高村光太郎は、銚子の犬吠埼に写生旅行に出掛け、ここで智恵子と再会した。この再会は、偶然的なものと理解されがちであるが、決してそうではなく、2人の約束ことであったと思う。

こうした観点から考察しようと思う。

この光太郎と智恵子の再会について、『智恵子の半生』に、

<私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会った。>

とあり、この時、智恵子と同行していたのは、2女のセキと藤井勇(日本女子大学英文科4回生。大正2年に結婚し、荒木姓になる)である。藤井勇の『手記』には、

<後日、ちえ子さんと房州(北条・館山)へ行ったこと、七里ヶ浜に、犬吠埼で共に過ごした時のことなど書きたいが、忘れていて細々した記憶出てこぬ。>

と記されている。

また、藤井の娘の福本洋子は、「犬吠埼の『親友』」(昭和55年8月『高村光太郎研究』)の中で、

<亡母は、日本女子大の英文科四生で、智恵子さんとは科が違うが、寮が同じだったのか、親しく、文芸会の劇では、いつも背景を描いてもらっていた由。卒業後も、大正二年に母が結婚して、やがて大坂に至るまで、交際が続いたようだ。犬吠埼へ一緒に行って、光太郎さんと出会った話は、いく度か聞かされたとみえて印象に残っているが、ほかのことは覚えていない。(中略)「智恵子抄」が出版されると、母の許にも送って下さったので、それを持って、何か書いて下さいとお願いしに行った。光太郎さんは、犬吠埼へ一緒に行った親友というのは、あなたのお母さんのことだけど、迷惑になるといけないので、名前を出さなかったとおっしゃった。>

とある。

光太郎が、初めて智恵子と出会ったのは、明治44年(1911)12月末で、アメリカ留学中に知り合った画家の柳啓助の夫人八重の紹介による。翌年6月に光太郎の新しいアトリエが完成した時、智恵子はグロキシニアの大鉢を持って訪問しており、その後も2人が会っていたようで、光太郎の家の近くの団子坂では智恵子が光太郎のアトリエに行く姿を度々見かけたと評判であったという。

この時期、智恵子には郷里の福島県油井村で親同士が口約束をしていた結婚話が具体化し、智恵子が実家に戻った。この時に光太郎は初めて智恵子に送る詩を発表し、

<いやなんです/あなたがいつてしまふのが・・・/(中略)/あなたがお嫁にゆくなんて/いやなんです/あなたがいつてしまふのが/(後略)>

と恋文にも似た内容のものであった。

このことから、智恵子の帰京は、実家の縁談を断るためのものであり、そして、8月末ころに再度上京した智恵子は、その報告を兼ね、目立たないように妹と親友を誘って光太郎が滞在する犬吠埼に行ったと思われる。

この光太郎と智恵子の犬吠埼での再会は、「偶然」のものではなく、2人が約束していた「予定通り」のものであったようである。

2007年9月16日 (日)

Magameつれづれ<第12号>いずみ郷土史会の「銚子史跡散策と銚子電鉄の旅」(その2)外川散策

9月14日(金)の午前中に銚子市内の史跡散策を終え、銚子電鉄に乗り、海鹿島駅で下車し、文学碑巡りをした後、再び銚子電鉄に乗って外川駅に着いた。もう時刻は2時30分を回っていた。

早速、3月に開館したばかりの「外川ミニ郷土資料館」へ。島田館長さんの他、スタッフの一人、銚子市文化財審議会委員で、ひたすら外川のことを調べておられる永澤謹吾先生が迎えてくれた。実に温かな資料館である。

永澤先生から外川の歴史を懇切丁寧に伺う。お話の中から、情熱を持って調べておられ、郷土・外川への愛情も感じられる。昨今、「郷土を愛する心を養う」ということが話題になっているが、こういう先生から講義を受けると、自然に郷土愛が生まれると思う。参加した会員も、先生のお話に興味・関心が湧く。

その後、漁業村落の外川の街を案内して頂く。江戸初期に造られた石垣や、この街づくりをした崎山治郎右衛門使用の井戸跡、大杉神社など、地元を知り尽くした人ならではの案内に、得をした感じでお話を伺う。

実に長い時間に渡るお話や案内であったが、時間を忘れて聞き入った。島田館長さん、永澤先生、本当にありがとうございました。

資料館を出た後、旅の疲れを癒すため、甘い物を食べに豆腐屋さんへ。ここで「豆乳プリン大納言」を食べる。きな粉付き・あんこ入りの豆乳で、適当な甘さがあり、参加者全員がペロリと食べ切る。

すでに予定の時刻はとうに過ぎ、4時35分の銚子電鉄に乗るために外川駅へ。ここで参加者は、すでに出発時刻になっているにもかかわらず、「ぬれ煎餅」を買い求める。その量の多いこと。駅員さんが奥から在庫を出す始末。5分ぐらい遅れて(「遅らして」と言った方がいいかも知れない)電車が出る。

銚子駅に戻り、有料駐車場に止めてあった車に乗る。駐車料が500円。「千葉市内よりも安い」とは本日の会計さんと言葉。来た道を戻り、7時少し前に公民館に戻る。

今日一日、いろいろな物を見、聞き、食べ、爽快な気分で家路に向かう。

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