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竹久夢二

2007年12月30日 (日)

『夢二日記』に見る「おしまさん」(長谷川カタ)との成田での再会(その2)

明治43年12月12日、夢二は成田で「おしまさん」と再会した。どこで、どのくらい会っていたのかは分からない。夢二が泊まったのは門前町の旅館、カタが住んでいるのは成田山女学校の寄宿舎で、田町19番地にあり、門前町の近くである。

2人は成田山新勝寺にお参りした後、近くでお茶を飲んだり、食事をしたのではなかろうか。

夢二は、カタと別れた後、東京に戻るために成田駅に向かった。駅までカタが見送ることはなかったようで、駅に着いた夢二は、日記帳(『夢二日記』)に出会いの様子やカタの感想などを長々と綴っている。

この日のカタの感想について、

<おしまさんは実に清く、そして、やさしく、純な少女だった。そして、すこしも自分と他と欺(いつわ)ったことのない人だ。月のように清い少女だ。>

とあり、

<「あなたが逃れなくなるもで、仲よくしていましようね」と言ったら、「えゝ」と言ったあなたの顔に私の嘗て見たことのない少女の可憐さが見えた。そして、その時、あなたの心の奥までも私の心が触れた気がしました。

あゝ、あの時、私は、もうこれで好い、私の望みはかなった!と思った。もう、こゝで別れても好い、これ以上は決して求めまいと決心した、だから、私は、清く別れて、心よく旅をつづけることが出来るのです。

さようなら、私の可愛い鳴かぬ小鳥よ。>

とあり、夢二は、この日、カタに会うだけで「幸福と満足」を感じ、清く別れたという。そして、『夢二日記』には、

<成田の町を立ったのは九時だった。寒い汽車は、月の好い野の中を走ってゆく。>

と記されている。

汽車の中で、夢二は、車窓に頬をつけ、外を見ながら、想いを綴った。

<やわらかき 愛の若芽を踏みしだき 君おもひつゝ 旅人はゆく

山添ひの かげろう萌ゆる畑中を 君をおむひつゝ 旅人はゆく

君といふ 清き少女を知りしより 今宵の夢の 安らけきこと

安らかに 別れてけりな月にて 清くやさしき人なりしゆへ>

その後、12月28日の『夢二日記』には、

<おや!十二月だといふのに、月見草が咲いている。かへりさき!かへりさき!おしまさんのくれた花、おしまさんに逢ったよふな気がする。>

とある。

2007年12月29日 (土)

『夢二日記』に見る「おしまさん」(長谷川カタ)との成田での再会(その1)

竹久夢二の『宵待草』は、夢二が銚子・海鹿島に滞在していた時、目が大きく、つぶらで美しい少女、長谷川カタと出会い、実ることのなかった「ひと夏の慕情」を綴ったものであるというのが定説である。

しかし、夢二の書簡や『夢二日記』を見ると、夢二とカタとの行き逢いは、明治43年の「ひと夏」だけのことではなく、この年の12月に成田で再会を果たしているのである。そこで、『夢二日記』などをもとに成田での再会の様子を探りたいと思う。

明治43年10月22日消印のカタからの『手紙』が夢二のもとに届いた。封筒には「成田町成田十九 長谷川賢」と書かれているが、中の書簡は見つかっておらず、『夢二日記』にも、このことは記されていないため、内容は不明である。当時、夢二とカタは、たびたび手紙のやり取りがあったようである。

その後、『夢二日記』の12月10日の項に、

<両国より夜たちいづ>

とあり、夢二はカタに会うために夜に両国駅(錦糸町駅)を発ち、成田に行ったといい、門前町の旅館に宿泊したようである。

そして、11日の項には、

<君まちてくらす。>

と記され、夢二は成田でカタを待ったが、この日は会えなかったという。この成田での出会いは、すでに手紙により連絡済みであったと思われる。

12日になって、やっと夢二は、カタと再会することが出来、『夢二日記』には

<全く幸福な最初の日だつた。>

と記されている。この日の「日記」は、カタと別れた後、成田駅で書いたもので、

<別れの時、もう私から手紙を繁々おくるまいと言ったから、手紙を出すかはりに、こうして旅日記の間々へ、おしまさんに就いての感想をかきつけておこう。>

とあり、この日のカタとの再会の様子が詳しく書かれている。

2007年12月28日 (金)

『夢二日記』に見る「おしまさん」(長谷川カタ)との出逢い(その3)

夢二とカタは、ほぼ毎日のように出逢い、君ヶ浜を散歩したり、大岩や大神宮に登ったりしていた。ただ手をつないだり、寄り添って歩くだけで、ほとんど会話はなかったという。

そして、いよいよ別れの日、8月29日を迎えた。この日の早朝、夢二は物音に驚いて目をさまし、すぐに岡の上に行った。カタも急ぎ足で来て、何かを言って頭を下げたので、夢二も黙って礼をすると、カタはそのまま、また急ぎ足で家の方に戻って行ったという。

その後、『夢二日記』には、

<ステーションに逢ふ。さくら(佐倉)にて別る。ハンケチと帽子をふりて別れをおしむ、つひに名をいはず、きかむともせずて、>

とあり、さらにこの日の夢二の『手紙』の「MISS SIMA FROM RUZIN」(未発送)には、夢二は松並木の間からカタの他に姉シマ、母テルとが銚子駅に向かう姿を見た後、自分もすぐに帰京を決意し、たまきと虹の助を残したまま、銚子駅に向かい、

<汽車が出そうになった時、そばにいつて、おつ母さんにアイサツして、あなたも成田へと聞いた、えゝ、とおつしやるのをきいて、何だかうれしいよふにおもふた、何のいわれもないが、どうしてそんなに急におかへりなさるのと姉さまはいみありげに聞かれた、どうしてといふ言葉に答へるほど不愉快はない、あまり寂しくなつたからと答へた、>

とある。

そのまま総武線で東京へ帰る夢二は、成田鉄道に乗り換えて成田に行くカタと佐倉駅で別れたという。 

2007年12月27日 (木)

『夢二日記』に見るおしまさん(長谷川カタ)との出逢い(その2)

明治43年(1910)8月4日に、夢二は離婚した岸たまき・長男虹ノ助と銚子・海鹿島の「宮下旅館」(民宿)に来て、長期にわたり滞在した。そして、『夢二日記』の8月21日の項に、

<月の明るい渚に二人並むでしやがんだ。波が時々、ざぁーざぁーとよせてくる。足をひたすけれど平気だ、除こうともしない、Iさん(カタ)も手で砂をいぢつて手をきたなくしてゐる。僕は砂で堤をこさえた。>

とあり、これが『夢二日記』で最初のカタとの出逢いの様子である。このとき、夢二は、カタの名前は知らず。「Iさん」とか、「おしまさん」と呼んでいた。夢二が初めてカタの名を知ったのは、9月4日付けのカタから夢二宛に送られてきた手紙であった。

その後、『夢二日記』を見ると、8月24日の項に、

<ためらつたあげく、たまきに聞かせて、おしまさんのうちへ画をかきにいく、心よくかゝしてくれた。みんな私をとりまいて見てゐる。>

とあり、この日、夢二は初めて「宮下旅館」の隣にある長谷川宅を訪れ、カタをモデルに絵を描いたという。その後、夕方には、またカタと再会したようで、

<山のうへで海を見てゐると、松の木の間からおしまさんが出た。頭をかしげた、けれどおじぎをしたのではない、何も、いはぬ、私も何もいはずに、あたりに気をかけていつしよにあゆむ、気が気ではないのなり、何を、とて言ふべきよき言葉もなし、>

とあり、夢二は大岩(鉄炮台)の上で海を眺めていると、松の木の間からカタが現れたという。カタは、もともと頭を斜めに曲げるのがクセであったといい、無口な女性でもあった。夢二は、辺りを気にしながら海岸線をカタと何も話さずに散歩したという。

8月26日にも夢二は、長谷川宅を訪れ、カタをモデルに絵を描いた。この日の『夢二日記』には、

<しおり戸をあけて入ると、すぐにおしまさんの顔が白いステーングラスの中に笑つて見えた。すぐ視線をそむけた。互いに、

とある。

27日も夢二は、カタと逢ったようで、『夢二日記』には、

<夕。海洋よりあがりて、無人島へゆく心、松原へゆく。たのしき木かげに、時々視線逢ふ。>

とあり、夢二は夕方に松原でカタに逢い、また、時々視線を合わせるが、何も語らず、海を見つめていたという。

さらに、28日の『夢二日記』にも、

<午後、松原へゆてまてどまてど来らず。暮るゝ頃、岡の上にて逢ふ。おどおどと来りてアイサツせり。女は岩にカラダをよせて仰ぐ。男はあちこちと歩む。岡をおりて山かげに坐す。かくてかくて別れたり、さようなら。>

と記され、日が暮れる頃に岡の上にカタが現れ、岡を下り、山陰げで座り、時間を過ごしたという。

この日の『夢二日記』には「屋根」という項があり、この日の出逢いの様子が詳しく記されている。

<しづかに、あなたが左の小松の中から出て来た、私の方へ歩むですこしまへでとまつておぢぎをした、わたしもおぢをした。新聞はいつか手からはなれて風に吹かれて飛んだ。私は約束した人が来た気で立つて歩んだ、然し話はなかつた。また別な方向へ歩いた、その時あなたは鳥居の方へいつて、あの高い岩にもたれた、私は村の方から見えるのがいやだから岩のかげにならんでもたれた、何か言はふとおもふたが、言葉は一つもなかつた、>

とあり、夢二は約束通りカタで逢ったが、村の人たちに知られたくないと思い、岩陰に行き、2人で岩に持たれながら、何も語らずにいたという。

しかし、27才の妻子がある夢二と若く、美しいカタとの逢い引きは、村でも評判となり、現在でも「宮下旅館の隣の家には夢二のおめかけさんが住んでいた」といわれている。

2007年12月25日 (火)

『夢二日記』に見る「おしまさん」(長谷川カタ)との出逢い(その1)

Photo_8 竹久夢二は、愛用のハンディタイプの日記帳(以後。『夢二日記』という)に、その日の行動・出来事・感想などを綴っています。

明治43年(1910)8月に銚子・海鹿島で「おしまさん」(長谷川カタ。本人は「賢子」又は「賢」と書いた)と出逢い、ほぼ毎日のように散歩し、その姿が村人の目にとまっていました。

そして、『夢二日記』の8月30日の項には、

<あゝ、あの岡、おもひ出すと苦しい、記憶の中からあの、ほんのりした笑顔が見える、あゝ、名のなき女よ、月見草をくれた少女よ、私はあなたが忘れられない、手紙をまつてまつてゐるのだよ、今日、地図を出して成田の辺を見て泣いた。>

とあり、夢二は海鹿島でカタと出逢って以来、カタに心を惹かれ、忘れられない存在になっていたという。

その後、夢二は、カタと12月に成田で出逢い、翌44年(1911)1月に海鹿島で再会し、カタへの恋心を募らせたが、8月にまた夢二は海鹿島を訪れた時には、もう会うことが出来ず、悲しみにふけりながら詩を書いた。これが『宵待草』で、大正6年(1917)5月にバイオリン奏者・多忠亮(おおのただすけ)が曲をつけ、初演奏をされ、忽ち日本中に広がり、多くの人の心をとらえ、不朽の名曲のなった。

そこで、次回から『夢二日記』を見ながら、夢二とカタとの出逢いの日々を追ってみようと思う。

写真は鹿児島時代のカタさん。

2007年10月16日 (火)

竹久夢二と女性たち(その10)松原の山荘で一緒に暮らした最後の女性「雪坊」こと、岸本(宇佐美)雪江<Ⅱ>

竹久夢二と16歳の岸本雪江との同棲は、その後、ゴシップ的に新聞に取り上げられ、

<歌人の山田順子と夢二との愛の破局が、まだ世間を騒がしているのに、早くも娘のような年若い女が、夢二の新しい情人になっている。>

と報道された。この記事に、夢二は、人目を避けるため、雪江を淀橋区十二社(じゅうにそう。新宿区西新宿)のお年寄り夫婦が間貸しする6畳1間の部屋に移した。そして、夢二は、2,3日置きぐらいに雪江の元を訪れていた。

そのうちに雪江は、隣の部屋の学生と知り合い、学生たちが大勢、雪江の部屋に集まるようになった。そして、雪江は、学生たちと毎日のように夜の新宿に出掛け、酒を飲み、酔っぱらって帰って来ることも屡々であった。

このことが夢二に知られ、雪江は、再び松原の山荘に戻された。しかし、山荘に雪江が戻って来たものの、これまでとは異なり、2人で無邪気に遊ぶことはなく、夢二も、毎日、浮かない顔をしていた。家全体が陰気する中で、雪江は、夢二に素直に接することが出来ず、かって学生たちと出掛けた新宿の街が無性に恋しく思い、夢二に縛られることのない、自由な生活を欲するようになったという。

4年(1929)12月、17歳になった雪江は、松原の山荘を去り、夢二と別れ、2年ぶりに母親の家に戻った。そして、翌5年(1930)2月に夢二が銀座の資生堂画廊で個展を開いたとき、雪江は、この個展に出席し、別れてから始めて夢二に会った。夢二が両手を広げて迎えてくれる姿に、雪江の目から自然に涙が溢れたという。

雪江は、展示されている夢二の絵を見る気にもなれず、「すぐに帰ります」というと、夢二は「よろしい。早くお嫁にゆくといいよ」といい、さらに「さようならはいわないよ」と。

間もなく、夢二から雪江に手紙が届いた。

<叱りたればすごすご小屋に入りけりルルも足らずるもののあるべし。>

これを最後に2人の音信も途絶え、会うこともなかった。

その後、雪江は結婚して宇佐美姓となり、3人の子供に恵まれ、昭和40年(1965)には『短歌あゆみ』を主宰した。前述の『夢二追憶』には、

<父親を早く失ったわたくしの生い立ちが、倖せであるはずもないのでございますが、夢二と十六歳で出会ったということが、運命的に、わたくしを短歌の世界に生かしてくれたのかも知れません。>

とある。

平成8年(1996)5月31日、雪江は、国分寺市の病院で心不全のため亡くなった。享年86歳であった。

*本稿は、宇佐美雪江『夢二追憶』(昭和47年3月。文芸春秋)などを参考にして書き上げました。

2007年10月15日 (月)

竹久夢二と女性たち(その9)松原の山荘で一緒に暮らした最後の女性「雪坊」こと、岸本(宇佐美)雪江<Ⅰ>

大正13年(1924)12月、竹久夢二は、東京府荏原郡松沢村松原(世田谷区松原)に自らが設計した「少年山荘」(「山帰来荘」ともいう)を建てた。クヌギやエゴなどの樹木がうっそうと生い茂り、道らしい道もない丘陵地に、赤い三角屋根に白壁の30坪ほどの建物であった。

この山荘には多くの人たちが出入りしていたといい、中でも別れた唯一の妻・岸たまき、モデルのお兼(お葉)、作家の山田順子なども訪れ、泊まったりしていたという。

夢二が最後に一緒に暮らした女性は、16歳の岸本(宇佐美)雪江であった。雪江は、明治43年(1910)2月16日生まれで、夢二とは27歳の年の差がある。生まれて間もなく父親が戦病死したため、四谷左門町(新宿区左門町)で母親と2人で暮らしていた。

昭和3年(1928)春、16歳になった雪江は、軽い胸の痛みのため、青山の北里研究所に通院していた。この時、四谷塩町から青山行きの市電の中で、筋違いに座って雪江をスケッチしている一人の男性がいた。これが44歳の夢二であり、夢二と雪江の出会いでもあった。

この頃、夢二は、大正14年(1925)7月から同棲していた山田順子が去り、常に心を寄せていたお兼(お葉)とも間もなく別れ、独り身であった。

市電の中であった雪江は、白い肌で、ふさふさとした黒い髪、丸顔で、全体的に病弱そうな、夢二好みの女性で、その日から毎日のように夢二から手紙が届いたという。その文面は、「わたしの娘よ。お元気かい」、「わたしの娘よ。お目覚めかい」という書き出しで始まっていたといい、初め雪江は、夢二に父親のような親しみを感じたという。

その後、夢二は、この雪江の家を訪れたり、雪江の母親の許しを得て、2人で向島の百花園などに出掛けるようになった。

この年の7月頃に雪江は、夢二を「父のような、恋人のような心情に心を燃やし」、母親の許しを得ないまま、夢二の山荘に行き、そのまま夢二と生活するようになった。雪江の『夢二追憶』(昭和47年3月、文芸春秋)には、

<夢二は、わたくしを赤ん坊のように扱っておりまして、名前も「雪坊」と呼ばれ、「女」として感じるわたくしの感情を嫌い、そういうことがわたくしの上に見えた時は、まことに冷たく、わたくしは身のおきどころがなかった。>

とあり、また、同書には、

<夢二にとって、わたくしはまったくの子供か、玩具のような存在だったのでございましょう。夢二自身の生きる上の相談など、ただの一度もきいたことがございません。たまにわたくしが大人めいた顔をしておりますと、「大人になるな」といって、きっく咜られたものでございます。>

と記されている。

夢二と雪江は、たびたび山荘付近を散歩したり、近くの店に買い物に行ったり、新宿まで出掛けて食事をしたり、箱根への旅を楽しんだりしていた。

家出同然に飛び出して来た雪江であったが、母親は、毎月1回、この山荘の雪江に会いに来た。母親は、夢二をよく思っていなかったようで、前述の『夢二追憶』には、

<夢二を終生憎みまして、わたくしの人生の負目として、第二の人生を踏みだしましたときにも、夢二のことは固く口を閉じ、わたくしにすら語ることはございませんでした。>

とある。

雪江は、夢二と生活する中で、時には楽しく、時には寂しく、また、時にはやるせない気持ちを抱きながら、日々を送っていたという。<続く>

2007年10月12日 (金)

竹久夢二と女性たち(その8)「夢二式美人画」の源泉となった「お兼(お葉)」<Ⅵ>

山田順子が山荘を去って間もなく、お兼が金沢から帰京し、慶応大学医学部内科助教授の正木不如丘宅(本名俊二。のちに信州富士見高原療養所々長)に身を寄せた。夢二は、早速、正木宅に出向き、お兼に会い、山荘に戻るように懇願したが、お兼は返事をしなかった。その後、お兼は兄が住む北豊島郡滝野川(北区滝野川)に移ったが、ここにも夢二が行き、戻って来るよう、必死に説得したが、お兼は気のなさそうな顔をするばかりであったという。そこで、夢二も、もはやお兼との修復が不可能と悟らざるを得ず、清く別れる決意をした。

こうして大正8年(1919)4月から14年(1925)までの6年余りに及んだ2人の同棲生活にピリオドが打たれた。

その後、お兼は、渋谷の高相利郎宅に身を寄せ、再びモデルとして曙町の藤原武二のアトリエに通った。しかし、お兼は、夢二と完全には別れられず、山荘を訪れたり、密かに夢二と会ったりしていた。そこでは、モデルとしてではなく、対等な立場での出会いであったという。

昭和2年(1927)にお兼は、北豊島郡滝野川町西ヶ原(北区西ヶ原)の大輪善治と結婚したが、翌年3月には協議離婚をした。これは、2年5月から『都新聞』に連載された夢二の自伝絵画小説『出帆』の中のお兼の行状が大きく影響したという。

離婚したお兼は、また、松原の夢二の山荘を訪れるようになったが、すでにこの頃には夢二が新しい娘、17歳の岸本(にちに宇佐美)雪江と同棲しており、この山荘に長く滞在することが出来なかった。

その後、6年(1931)4月にお兼は、正木不如丘の紹介で、山口県萩市の由緒ある家柄で育った医者の有福精一と結婚した。有福は、お兼より3歳年上で、父親を早くに亡くし、弟や妹を学校に進ませるため、生活費を削って仕送りをしていた苦労人であった。子供は生まれなかったが、仲のよい夫婦として日々を送り、久しく世間から遠ざかった。

一方、夢二は、雪江と2年余り同棲生活をしたが、4年(1929)に雪江は夢二の山荘を出て行った。その後、お兼が結婚した6年の5月に夢二は、新天地を求めてアメリカに渡った後、ドイツ・オーストリア・フランス・スイスなどを訪れ、各地で個展を開いたが、どこも不振であった。8年(1933)9月18日に落胆して帰国し、10月26日に台湾に渡ったが、体調を崩して11月に帰国し、結核を患い、翌年1月に正木不如丘が所長を勤め、かってお兼が入院していたことのある信州富士見高原療養所に入院した。

夢二は、「身内のものが一人も来てくれないのが口惜しい」といい、涙を流した翌日、9月1日午前5時40分に、家族も、縁者の姿もなく、病院の職員たちに見守られながら、「ありがとう」との言葉を残し、50歳(実際は満49歳11ヶ月)の生涯を終えた。友人の有馬生馬らにより、東京・豊島区南池袋4丁目の雑司ヶ谷霊園に埋葬された。戒名が「竹久亭夢生楽園居士」。

有福精一と結婚したお兼は、52年(1977)4月に名古屋で開催された「藤島武二回顧展」に夫を伴って久しぶりに人々の前に姿を見せた。お兼は、展示されている『芳恵』の絵を見ながら、精一に「これが私がモデルになって藤原先生が描いてくださった作品です」と笑みを浮かべながら話していたという。

それから3年後の55年(1980)10月24日にお兼は、76歳で亡くなった。静岡県富士市の光照院富士山泰徳寺に夫とともに眠っている。<終わり>

*本稿は、金森敦子『お葉というモデルがいた』(平成8年7月。晶文社)などを参考にして書き上げました。

2007年10月11日 (木)

竹久夢二と女性たち(その7)「夢二式美人画」の源泉となった「お兼(お葉)」<Ⅴ>

お兼が深谷温泉に療養中の大正14年(1925)4月12日に、夢二は、徳田秋声に頼まれて装丁した、女流小説家山田順子(ゆきこ)の自伝小説『流るるままに』が出版された。この順子は、明治34年(1901)6月、秋田県由利郡本荘町(本荘市)で廻船問屋を営んでいた山田古雪の長女として生まれた。お兼より3歳年上の、同郷の女性であった。県立秋田高等女学校(秋田北高校)を卒業し、大正9年(1920)に東京帝国大学卒業の弁護士増川才吉と結婚し、小樽に住んでいた。13年(1924)3月に小説家を目指して上京し、原稿を持って徳田秋声の家を訪れた。このとき、秋声は「爪ざね顔の浮世絵風の美人の順子に魅せられた」というが、持参した原稿は未熟さが見られ、出版という訳には至らなかった。

落胆した順子は、一旦、帰郷し、12月に夫と離婚し、3人の子供とも別れて再び上京し、秋声の力を借りて『流るるままに』を出版したのである。そして、15年(1926)1月に秋声の妻が急死したため、1ヶ月も経たないうちに順子は秋声の愛人となった。

お兼が静養していた深谷温泉から帰宅し、その3週間余り後に、順子が初めて夢二の山荘を訪れた。夢二が41歳、お兼が21歳、順子が24歳の時である。この日から順子はたびたび山荘を訪れ、そのうちにお兼の目を盗んで2人は男女の関係を持つようになった。そして、2人で1週間余り順子の故郷本荘などの旅行に出掛けた。

お兼は、何も言わずに出て行った夢二を心配して、あちこち捜しているうちに、順子と本荘に行っていることが分かった。新たな持ちで出発しようと約束した矢先、また夢二の浮気が発覚したのである。

お兼は、順子が同郷であったことは勿論、男の気を引くように唇に鮮やかな赤を塗り、けばけばしい羽織を装い、自分の美貌を誇示するような多弁な話しぶりに嫌気をさしていた。

6月1日、自らの境遇に耐えかねたお兼は、夢二と別れることを決意し、山荘を出て金沢に向かった。お兼は、夢二が嫌いになった別れるのではなく、順子との浮気を許すことが出来なかったからであるという。

一方、順子は、お兼が山荘にいないことを知ると、山荘に来て、そのまま居座った。このことが6月10日付けの『読売新聞』に掲載された。

<竹久夢二さんは拾年同棲の夫人と別れて、女流作家山田順子さんと同居してちらほら噂の種蒔きをやつている。(中略)夢二氏の夫人は手切金とかを貰つて山中温泉への逃避行をやつているよし。>

お兼は、この新聞記事を読み、夢二が順子と同居していることを知り、激怒したという。夢二もあわてて、同月16日に藤島宅を訪ね、お兼からの手紙を受け取った。そこには、

<これからは自分の力で自分の行く手を拓いてゆく。>

と書かれていた。

山荘に来た順子は、夜も昼も布団を敷きっぱなしにし、そこで寝ころんで「創作」をしたり、食事をしたり、酒を飲んだりしていた。これにはさすがの夢二も呆れ、いやな顔をし、虹之助も順子の顔を見るたびにいや味を言った。

7月24日、順子は、自尊心を傷つけられ、また、文壇とのコネも付けてくれない夢二に見切りをつけ、山荘から出て行った。同棲期間は、50日に満たなかった。<続く>

2007年10月10日 (水)

竹久夢二と女性たち(その6)「夢二式美人画」の源泉となった「お兼(お葉)」<Ⅳ>

大正13年(1924)8月31日、お兼は、隣家の歌人西出朝風の元に出入りしていた書生の小原清次と連れ立って家を飛び出した。夢二は、初めのうちは必死に探したが、長年の確執や仕事の多忙さなどから、いずれ戻って来るだろうと思い、静観した。そして、12月から東京府荏原郡松沢村松原(世田谷区松原)に自ら設計したアトリエ付の住宅「少年山荘」(「山帰来荘」ともいう)の新築を始めた。この山荘は、400坪の借地にベットを入れた4畳半の洋風居間・16畳のアトリエ・食堂・濡れ縁付きの4畳半の日本間・3畳の女中部屋、そして、6畳のベルコニー付きであった。

4ヶ月後にお兼は、行動を共にしていた小原から身を隠すため、田端の母親の家に逃げ込んだ。そして、母親に諭され、12月29日に夢二の元に戻った。「どこに行っていたのか」という夢二の問いに、お兼は「お願い、聞かないで」と言って泣き崩れるばかりであったという。このお兼の家出は、相変わらず続いていた夢二の浮気癖に対する不満の現れで、夢二の気を引きたい一心の行動であったといわれている。

松原の「少年山荘」への引っ越しの最中に、小原が住み込みの手伝いをしたいとやって来た。お兼との関係を知らない夢二は、お兼のかっての隣家の顔なじみと思い、お兼に聞かず、引っ越しや片付けに男の人も必要であったため、小原を迎え入れた。新築なった松原の赤い三角屋根に白壁の洋館の「少年山荘」で、夢二・お兼・両親の元から引き取った長男虹之介・次男不二彦・女中のお静、そして、小原の6人の生活が始まった。

引っ越しの時から、青い顔をしながら働いていたお兼は、大晦日になって床についた。正月になっても熱が上がったり、下がったりし、寝たきりの状態であった。

春になって同居していた小原が、2階で睡眠薬を飲んで自殺を図った。一命を取り止めたが、この騒ぎで夢二は、以前、お兼が家出した時、この小原と一緒であったことを知った。駆け付けて来たお兼の母親は、眠りながら涙を浮かべるお兼の枕元で、頭を下げ、「お兼が悪い」と泣き崩れたという。回復した小原は、夢二に挨拶もせず、逃げるようにして去っていった。

その後、お兼は、病も次第に回復し、床を離れるようになった。4月に入ってお兼は、静かなところで療養したいと夢二に頼み、4日に石川県河北郡三谷村深谷温泉に旅立った。この時、夢二は、お兼が深谷温泉から帰宅したら、お兼の望み通り入籍するつもりであったという。

同月24日にお兼は、深谷温泉から夢二が住む山荘に帰って来た。夢二は、お兼と新たな気持ちで生活を始めようとしたが、一方でお兼の過去をさっぱりと忘れることが出来ず、結婚を躊躇していた。こうした最中、夢二には新たな女性、山田順子(ゆきこ)が現れた。<続く>

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