大多喜城下を見て回った後、いすみ市荻原の「行元寺」(天台宗)へ。
寺伝によると、849年に円仁によって、現在の大多喜町伊東に創建され、無量寿院と号したが、治承4年(1180)に大納言冷泉行元の発願により、荻原茶田之谷に再興され、行元寺と改称し、その後、天正14年(1586)に現在地に移ったといいます。
中世以降、房総における天台教学の拠点となり、江戸時代には江戸上野の寛永寺から代々住職を迎え、上総・安房の末寺96ヶ寺を有する大寺院として檀林・祈願所として発展したそうです。
参道を登ると、享保20年(1735)建立の山門があり、最近改修したことにより、朱色が目に眩しいばかり。
本堂は房総屈指の大建造物で、内部の欄間彫刻は、宝永3年(1706)に江戸城改修工事などで彫刻棟梁として活躍した高松又八郎邦数の作品であるといいます。
本堂の隣には寛政12年(1800)建立の旧書院があり、この書院には「波の伊八」の作品があります。
住職さんから詳しく説明をして頂き、欄間彫刻をじっくりと見ると、波の動きには実に躍動感がありました。
国道128号(房総横断道路)の太東崎灯台入口を入り、右手に進みますと、左手に「天狗のお寺」・「波の伊八」の彫刻で有名な飯縄(いづな)寺(天台宗)があります。
正式には明王山無動院飯縄寺といい、本寺の「縁起書」には、
<大同三年(808)、慈覚大師により開山され、本尊の飯縄大権現が天狗のお姿をしていることから、「天狗のお寺・おいづなさん」と古くから親しまれている。火防・家内安全・海上安全・商売繁盛・無病息災・厄除・盗賊除など、十三のご利益があり、信仰を集めている。>
と記されています。
室町期様式の藁葺屋根の「仁王門」をくぐると、広い境内の中央に寛政9年(1797)に再建された本堂があります。
本堂の内陣と外陣との間の欄間に初代伊八(1751~1824)作の「天狗と牛若丸」(中央)、「波と飛龍」(その左右)の彫刻があります。
初代伊八は、名を武志伊八郎信由といい、宝暦元年(1751)に長狭郡下墨村(鴨川市打墨)で武志家の5代目として生まれました。武志家は、下打墨村で名主を務める家柄で、もとは千葉六党の1つ、武石三郎胤盛の末裔であるといわれています。
10才の時から彫刻師の修業を始め、躍動感と立体感の溢れる横波を彫り、江戸中期から関東一円の神社仏閣に装飾彫刻をほどこし、名人「波の伊八」と称され、同業者仲間からは「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめました。また、伊八の作風は、葛飾北斎の「波」の画風に強く影響を与えたといわれ、文政7年(1824)に亡くなるまで意欲的に作品を造り続けました。
この伊八は、飯縄寺本堂の再建(寛政9年)のとき、約10年間滞在し、金千両余で彫刻などに携わったとされています。
また、天井画の墨絵「龍」は、平成の大修理のとき、「秋月等琳」の銘が発見され、「雪山」の落款から、葛飾北斎の師匠である3代目堤等琳であることが判明しました。
この他、約2畳の大きさの「賽銭箱」には、「江戸講中」の大きな銅版がはめ込まれ、左右には「天保十一年(1841)五月」・「東都小伝馬上町」(東京都中央区日本橋小伝馬町1・2丁目)と記されています。
この寺院には源義経の伝説もあります。京都から奥州に向かう途中、この寺に立ち寄ったといい、また、鞍馬山で大天狗から武術を学んでいたとき、大天狗から「奥州に向かうなら、わしの知り合いのいる上総国の飯縄寺へ訪ねるがいい」といわれ、伊豆から舟でこの地に着いたといわれています。
あいにくの雨の中、本寺には2度目の参詣でしたが、前述の伊八作の彫刻の他、鐘楼・「義経と弁慶の図」などの絵馬・ひょうたん池など、観賞すべきものが多く、見応えのある寺院でした。
12月3日。この日の天気予報は、「くもり、のち雨」で、午後から雨が降るということでしたが、9時過ぎに家を出て、茂原街道(千葉茂原線)を岬町に向かいました。途中から雨が降ったり、止んだりし、最悪の史跡調査日となりました。
茂原市から国道128号(房総横断道路)に入りましたが、車のワイパーは止まることがない。岬町の長者交差点を右に入り、夷隅長者線を進み、道路脇に掲げられた「案内板」に従い、清水寺に向かいました。県郷土環境保全地域の「清水観音の森」という大自然の中に天台宗の清水寺がありました。山間にあって、京都の清水寺に地形が似ていることや、夏でも涸れることのない霊水「千尋の池」があることから、この寺号が付けられたといわれています。
正式には、音羽山千手院清水寺といい、大同2年(807)に慈覚大師(最澄に師事した円仁)が開基したと伝えられ、本寺の『由緒書』には、
<延暦年間(782~806)、伝教大師(最澄)がこの地に巡錫中、道に迷った際に、熊野権現が樵夫(木こり)に化して現れ、一夜の宿を与えてくれた。大師は、そこで庵を結んだが、勅令で比叡山に帰ったのち、慈覚大師が師の志を継いで訪れ、楠で千手観音像を刻んだ。さらに、東征中の坂上田村麻呂が、大同二年(807)、堂宇を建立。
と記されています。
慈覚大師(円仁)は、承和5年(838)に入唐し、天台教学・五台山念仏などを修学していましたが、武宗の仏教弾圧が起こる中、同14年(847)に帰国し、常行三昧堂を建立して東密に対抗する台密の基盤を整備し、また、比叡山興隆の基礎を確立しました。
雨が降る中、細い道を上り、境内の駐車場まで車を進めました。平成5年に再建立した「仁王門」をくぐると、その先に江戸時代後期の文政5年(1822)建立の「四天門」があります。ここには、風神と雷神が祀られています。このためか、雨は大降りとなり、時々雷が鳴っています。
四天門を抜けると、右側に「百体観音堂」があります。ここには大石内蔵助を中心に「赤穂四十七士」の仏像が並んでいます。明治の末頃、新田野(にったの)村(大原町新田野)の仏師・長谷川良工の作で、当時の住職が供養のために彫刻させたと伝えられています。
赤穂四十七士をじっくり観賞した後、境内の左側の古めかしい建物の「奥院堂」へ。文化11年(1814)に本堂の仮堂として建立されたといい、気品に満ちた本尊十一面観世音菩薩が安置されています。
どしゃ降りの中、小降りになるのを待つため、「休憩所」に入りました。中央には大茶釜があり、縁日には接待のために使用するようです。隅から外を眺めると、「松尾芭蕉の句碑」が見られ、
<木枯らしに 岩吹き尖る 杉間哉>
という句が刻まれています。文政9年(1826)10月15日の芭蕉翁百三十三回遠忌を記念して行川(なめかわ)村(夷隅町行川)の俳人・半場里丸(宝暦6年に当村で生まれ、小林一茶と親交があった)が発起人となり、建立されたものです。
いよいよ「本堂」へ。重厚さ溢れる本堂は、文化10年(1813)10月に焼失したため、同14年(1817)に再建されたもので、本尊の千手観世音菩薩が祀られています。
大雨の中での参詣でしたが、美しい大自然のふところに包まれた清水寺は、隅々まで整備され、実に素晴らしい景観でした。
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