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富津市

2012年12月 2日 (日)

富津市史跡めぐり(9)吾妻神社

Photo_16西大和田に鎮座する吾妻神社は、祭神が弟橘媛尊(おとたちばなのみこと)で、通称「おあずまさま」と呼ばれている。

Photo_17この神社に弟橘媛尊の遺品である櫛が社殿に納められているということで立ち寄った。

Photo_19入口に掲示されている「由緒沿革」には、

<当社は山上にあって、海岸に漂着した日本武尊妃弟橘媛尊の遺品を社殿に収めて祀ったと伝えられる。治承四年、源頼朝が当所を通過したとき、武運長久の祈願をして幣帛を奉った由。神仏混合時代は吾妻大権現と称し、別当寺は宝幢寺であった。>

と記されている。

2012年6月29日 (金)

富津市史跡めぐり(8)織本花嬌(かきよう)の墓

Photo_8富津36の大乗寺(浄土宗)に江戸時代中期~後期の女性俳人であった織本花嬌の墓がある。

Photo_9花嬌は、宝暦5年(1755)に西川村の名主小柴庄左衛門の娘として生まれ、本名を園(その)と称した。

富津村の名主織本嘉右衛門に嫁し、夫とともに江戸の大島蓼太に俳諧を学んだ。天明7年(1787)に蓼太が亡くなり、その後、小林一茶との交流が始まった。

Photo_10文化6年(1809)3月に一茶が富津村に来て、句会が開かれた。その会場は、本乗寺であり、住職も俳人であった。

文化7年(1810)に花嬌は亡くなり、大乗寺で法要が営まれた。一茶は百ヶ日や3回忌の法要に参列した。

一茶の大乗寺への宿泊は16回、144日を数えている。

2012年6月28日 (木)

富津市史跡めぐり(7)戦争遺跡(その6)放列施設

Photo_7中ノ島の裏手の橋を渡り、左手を見ると、雑木林の中にコンクリート壁の放列施設がある。

記録によると、昭和16年(1941)に建設された「銃器研究施設」の射入窖(しゃにゅうこう)放列施設であるという。

この壁の射撃口から数十m離れた位置に構築された射入窖に打ち込んだという。

射撃口はコンクリート壁の左右にあり、この先に砲弾を撃ち込む「射入窖」がある。

2012年6月27日 (水)

富津市史跡めぐり(6)戦争遺跡(その5)違った形状の監的所

Photo_5中ノ島の裏手の橋を渡り、お手植えの松から遊歩道をしばらく進むと、右側の林の中に「監的所」を見つけた。

Photo_6


北側にあったものとは違った形状をしていた。

監的所は、この岬に3基あるというが、3つ目が見つからない。

この中で、試射されて来る砲弾をじっと待っていた兵士。どこにどのように着弾したかを記録し、報告した。兵士も忍耐が必要である。当時は、このことを忍耐とはいわず、当然の義務であったことであろう。

2012年6月26日 (火)

富津市史跡めぐり(5)戦争遺跡(その4)警戒哨(監的所)

Photo富津岬の北側の海岸にコンクリート製の円筒の建物がある。地元では「ぼうず」と呼ばれている警戒哨(けいかいしょう)、又は監的所の跡である。

Photo_2試射した砲弾の着弾を確認するためのもので、上部は丸く、胴体部には人の目の高さに長方形の窓があり、南側は松林、北側は東京湾を見ることが出来る。

Photo_3内部は円形で、直径4mぐらいであり、厚さが60cmぐらいある。

Photo_4中に入って見ると、何か息詰まるような感じで、よくも何時間も、ここで監視したものであると感心する。

2012年6月25日 (月)

富津市史跡めぐり(4)戦争遺跡(その3)中ノ島(Ⅲ)

Photo_5日本陸軍の砲台の中で、海水を引き入れた水堀があるのは、この中ノ島だけであるという。28cm榴弾砲6門が東京湾に向けて据えていた。

Photo_6日露戦争のときに、そのうちの2門が撤去され、旅順に送られたという。

Photo_7その後、大正4年には旧式となり、東京湾要塞砲台としての任が解かれ、除籍になり、以降は陸軍の試射場として使用された。

Photo_8レンガ造りの部屋は「弾薬庫」ともいわれるが、実際のところは不明。

Photo_9昭和55年に鉄筋コンクリート3階建て、高さ9.1mの展望台が築造された。この展望台から四面を眺める。

山あり、海あり、工場地帯あり、住宅地あり、様々。空気がおいしい。

2012年6月24日 (日)

富津市史跡めぐり(3)戦争遺跡(その2)中ノ島(Ⅱ)

Photo明治17年8月に完成した「元洲砲台」。

28年には「東京湾要塞司令部」の守備隊が置かれ、大正4年9月に旧式として除籍され、「陸軍技術本部」の大砲試射場となり、終戦まで軍の占拠が続いた。

Photo_3そして、昭和26年に「県立公園」に指定された。

Photo_4公園内には軍施設の跡が至るところに残っている。

国でもいい、県でもいい、市でもいいから、これらの遺跡を「今後戦争が起こさない」ためにも、是非、保存したほしいものである。

この地を訪れるたびに、平和の有りがたさを感じる。私だけであろうか?

2012年6月23日 (土)

富津市史跡めぐり(2)戦争遺跡(その1)中ノ島(Ⅰ)

Photo富津岬は、明治以来、太平洋戦争まで軍隊の要衝地帯で、民間人の立入りは禁止されていた。

Photo_2明治14年(1881)に明治政府によって砲台と海堡(かいほ、かいほう)が造られた(完成は明治17年)。

Photo_3濠に囲まれた「中ノ島」は、元洲砲台で、明治28年(1895)には東京湾要塞司令部が置かれ、この砲台には歩兵中隊が守備に就いていた。

池の濠に架かる橋をわたると、すぐに切通しのような石積みの入口があり、内部に入り、南面した円弧状のところを登っていくと、5基ほどの砲座の跡がみられる。

石積みの階段があり、この階段を降りていくと、左側に6畳ほどのレンガ積みの部屋がある。いったい何の部屋であろうか。

2012年5月27日 (日)

富津市史跡めぐり(1)弟橘姫頒布漂着碑と米軍本土初上陸の地

Photo富津岬の布引(ぬのひき)海岸に「弟橘姫頒布漂着碑」と「戦後米軍本土初上陸地」があります。

Photo_2富津市観光協会富津支部の案内板には次のように書かれています。

Photo_3◇弟橘姫頒布漂着地

  東征の時、日本武尊と一緒に来た弟橘姫が現在の東京湾の浦賀水道で時化(しけ)にあい、海を静めるために入水した時、身につけていた布の一部が流れ着いた所、布流津(ふるつ)といい、現在では布引海岸と呼ばれている。

◇戦後米軍本土初上陸地

  終戦十五日後の昭和二十年八月三十日午前五時五十八分、米第四海兵第二大隊を乗せた上陸用舟艇の第一陣がこの地に星条旗を掲げた。日本本土への米軍の初上陸地である。

2011年12月31日 (土)

佐貫城を訪ねて(3)本丸と物見台

Photo_10里見義堯の子、義弘は、家督を相続後、ここを本丸としたというが、永禄7年(1564)の第2次国府台合戦で再び北条氏と戦い、大敗を屈し、北条氏は勢いに乗じて上総三船山(君津市)まで押し寄せた。

Photo_11この三船山付近で合戦となり、地の利を生かして戦った里見氏は大勝し、北条側は小田原に引き下がったという。

Photo_12そして、天正18年(1590)に家康の家臣・内藤家長が2万石でこの城に入った。家長が関ヶ原の戦いで戦死し、子の政長が跡を継ぎ、元和2年(1622)に政長が陸奥に移ると、松平忠重が1万5千石で入り、寛永10年(1633)には松平勝隆に替わる。

Photo_13さらに元禄元年(1688)には柳沢吉保が入るが、同7年に川越に移り、佐貫城は一旦、廃城となった。

その後、宝永7年(1710)に阿部正鎮が三河刈谷からこの城に入り、再興し、以後、明治維新になって廃城となった。

Photo_14


以上が佐貫城の歴史であるが、広い本丸、そして西側には物見台があり、遠くに東京湾を望むことが出来る。

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