無料ブログはココログ

神奈川県・東京都

2008年1月11日 (金)

バスツアーによる相模寒川神社・川崎大師・泉岳寺への初詣

昨日(1月10日)は、千葉交通旅行社のバスツアー「寒川神社・川崎大師・泉岳寺の初詣」に参加しました。

北大宮台歴史を知る会から私を始め17名、更科地区・多部田地区の人たち、総勢42名が参加しました。

7時10分に北大宮台を出発し、大宮インターから京葉道路・湾岸道路・東名高速を走り、厚木インターで降り、一路、寒川神社へ。朝、早くの出発のためか、渋滞に巻き込まれることなく、バスはスムーズに進む。

9時過ぎに寒川神社に到着。もう正月から10日目のためか、人出も少ない。到着すると、すぐに正式参拝。

この寒川神社は、相模国の一之宮で、祭神が寒川比古命・寒川比女命で、八方除の守護神として知られています。当社の「御由緒」書によると、

<相模国を始め、関八州総鎮護の神として、古くから朝野の信仰が殊に厚く、およそ一千五百年前、雄略天皇の御代に奉幣、勅祭が行われたとあります。醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国唯一の大社と定められ、特に名神祭に預かる名神大社に列せられました。>

と記されています。

10時30分に寒川神社を出て、昼食を取るため、横浜の中華街へ。平日にもかかわらず、結構、人出が多い。ゆっくりと食事を取った(というよりも、料理が出るのが非常に遅いため、時間がかかる)後、川崎大師へ。

参道には人が列を作り、人並みと共に本堂に向かう。この川崎大師は、正式には「金剛山金乗院平間寺」といい、真言宗智山派の大本山です。今から870余年前の大治3年(1128)に平間兼乗と高野山の尊賢上人が建立した寺院で、本尊は兼乗が夢告により、海中より発見した「厄除弘法大師像」です。

参道の両側には店が建ち並び、活況を呈しています。私もこれに誘われて、食べもしない「厄除けの飴」を購入。

3時30分にこの川崎大師から、東京・高輪の「赤穂義士の墓」で知られる萬松山泉岳寺(曹洞宗)へ。参道は、高輪高校の通学路になっているようで、帰りの高校生が通り過ぎる。「東京の高校生」にも関わらず、身なり・服装がきちんとしていることに感心。

当寺の「由緒書」によると、

<慶長18年(1612)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です(現在のホテルオークラの近く)。しかしながら寛永18年(1641)の寛永の大火によって焼失、そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名に命じ、高輪に移転して泉岳寺は出来上がったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いは、この時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備し、諸国の僧侶200名近くが修学する叢林として、また、曹洞宗江戸三ヶ寺、ならびに三学寮の一つとして名を馳せました。>

とあります。

天保7年(1833)に再建された「中門」、天保3年(1832)に再建された「山門」をくぐり、本堂へ。本尊は、釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師、瑩山禅師、また、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(密仏)が納められています。

本堂に参拝の後、「赤穂義士の墓」へ。まず、赤穂藩主であった浅野内匠頭の墓と奥方の墓を参拝後、元禄15年(1702)12月14日に吉良邸に討ち入りし、本懐を成就した家老・大石内蔵助を頭として47人の武士の墓を巡り、参拝。

予定された「三社寺」の参詣も、予定された時間よりも早く廻りことが出来(参加者が集合時刻よりも早く行動したため)、行きと同じように湾岸道路・東金道路を通り、5時に北大宮台に到着し、「今年1年が健康で、幸福な1年でありますように」と願った「初詣」の旅が終わりになりました。

最近のトラックバック

2015年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31