皇女和宮の愛用の駕籠が一宮町一宮字東院の東漸寺に保管されているということで、この寺院を訪ねました。
東漸寺は、山号が三島山といい、上宿に鎮座する三島神社の別当で、平広常が開基したといわれています。本尊が浪切不動明王で、もとは東漸寺谷にありましたが、慶長17年(1612)7月に光室恵珍により、曹洞宗の寺院として開山し、現在地に移転したといいます。
皇女和宮親子(ちかこ)は、徳川幕府が終局を迎えつつある文久2年(1862)2月11日(3月12日)に第14代将軍家茂(いえもち)の正室となりました。
この和宮は、弘化3年(1846)閏5月10日(7月3日)に仁孝天皇の第8皇女として生まれました。生母は観行院(典侍・橋本経子)。孝明天皇は異母兄に当たります。
嘉永4年81851)に和宮は、有栖川宮幟仁親王の長男である熾仁(たるひと)親王と婚約しましたが、岩倉具視らが推進する「公武合体」のために婚約を解消し、文久元年(1861)10月20日に徳川家茂との婚儀のため、京都を出発しました。随行したものは、朝廷側が約1万人、幕府側が約1万6千人で、攘夷派の妨害工作を避けるため、東海道ではなく、中山道を利用したといいます。
江戸に向かう和宮一行の警護には、幕府側から供奉総奉行として一宮一帯を治めていた加納駿河守久徴(ひさあきら。上総一宮藩第2代藩主。一宮加納家6代。若年寄。1万3千石)が派遣されました。
15才の和宮は、26日に及ぶ長旅を無事に終え、11月15日に江戸清水御殿(千代田区北の丸公園)に入りました。そして、この御殿で旅の疲れを癒し、12月1日に江戸城本丸に入りました。この和宮の一行には常に加納久徴が警護のために随行し、和宮が無事に江戸城に入城しましたたが、その後、久徴は和宮からその労のねぎらいを受け、豊後国長盛の刀1振と鞍鎧1具とともに自らが愛用した駕籠のお下げを受けたといいます。
和宮が家茂に降嫁することで、公武合体が完成し、和宮は大奥で、年寄の瀧山、本寿院(13代将軍家定の生母)、天璋院(篤姫。家定の正室)と過ごしました。いわゆる政略結婚でしたが、家茂と和宮は、歴代の将軍と正室の中で最も仲がよかったといわれています。また、江戸城内では武家の習わしで、将軍の正室を「御台所」と称していましたが、自らを「和宮様」と呼ばせたといいます。
慶応2年(1866)7月20日、家茂は第2次長州征伐の途上、突然、大坂城で死去しました。遺骨と上洛のお土産として所望した西陣織が和宮の元に届き、これを前にした和宮は、
<空蝉の唐織ごろもなにかせぬ 綾も君ありてこそ>
と詠い、悲嘆に暮れたといいます。以後、落飾し、「静寛院宮(せいかんいんのみや)」となり、同4年(1868)4月には江戸城が官軍に明け渡すこととなり、田安屋敷に移りました。後に勝海舟の家で天璋院と食事をし、仲よくなったといわれています。
明治10年81877)9月2日、療養先の箱根町塔ノ沢の環翠楼で波乱の生涯を終えました。享年32。死因は脚気衡心(脚気による心不全)とされ、墓所は芝増上寺の家茂の墓の隣にあります。
なお、和宮から頂いた駕籠は、廃藩置県の際に、加納家が東漸寺に寄進したといわれています。
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