無料ブログはココログ

一宮町

2013年1月10日 (木)

上総介平広常の居城高藤山城址(一宮町)を訪ねて(Ⅲ)

Photo_3標高83mの高藤山の山頂には、2つの郭があり、その間に堀切がある。

Photo_4北の郭には案内板が建ち、ここから東方に一宮の市街地、そしてその先には太平洋が遠望できる。ここには物見櫓があったものと思われる。

Photo_5南の郭には幕末に一宮藩主であった加納久徴(ひさあきら)の「高藤山古蹟之碑」が建っており、ここには本陣があったものと思われる。

Photo_6この城の城主平広常は、治承4年(1180)8月に源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、房総に逃れて来たとき、頼朝が援軍を求めてきたが、「千葉介常胤と相談した後、参上する」という返事をし、頼朝の一団が市川に至ったときに300騎を引き連れて遅参した。

Photo_7その後、広常は、多くの戦いで功績を挙げるが、寿永2年(1183)12月22日に営中の双六大会に招かれ、双六に打ち興じているところを、梶原景勝によって不意に切られ、亡くなった。

広大な広常の領地は、千葉常胤と和田義盛に分け与えられた。

2013年1月 9日 (水)

上総介平広常の居城高藤山城址(一宮町)を訪ねて(Ⅱ)

Photo_11高藤山城址の入口から本丸跡まで200mの急な坂道を登る。

Photo_12息を切らし、何回も休憩を取りながら、坂道を行く。先はさらに急な道。一歩一歩ゆっくりと坂を登る。細い坂道の右側は、急な斜面で、一歩間違えると、この斜面から落ち、命取りになるかも知れず、気をつかいながら先へ、先へと。

Photo_13不思議なことに、きつい坂道であるにも関わらず、「もう止めよう」とは思わない。むしろ、「この先に珍しい物があるかも知れない」という好奇心の方が強い。

やっと右側に平場があった。馬場か、曲輪か?この辺りから道はやや緩やかな登りとなる。頂上が近いのである。

道が緩やかになると、足取りも軽くなり、進むペースも上がる。

Photo_14頂上である。平場が2つあるが、「高藤山古蹟碑」の説明板と石碑が建っている所が本丸跡であるという。

この石碑について、『説明板』には、

<加納久徴侯(領主)は城址が変容し、忘れられてゆくのを恐れ、碑を建てて見示することにした。>

と記されている。

2013年1月 8日 (火)

上総介平広常の居城高藤山城址(一宮町)を訪ねて(Ⅰ)

Photo_8上総国一帯を支配していた上総介平広常の居城という一宮町一宮の「高藤山城址」を訪ねた。

Photo_9この城は、柳沢城、高塔城などとも称され、築城年代は不明であるが、高望王の第6世の孫、上総下総介平常兼の次子の常家(上総権介)について、『千葉大系図』に、

<上総国長柄郡一宮柳沢城に居る。>

とあり、常家ー常明ー常隆ー広常と、4代にわたり、この高藤山(柳沢)城に拠り、広常の代には強力な土豪になったという。

Photo_10
さて、県道85号を睦沢町からいすみ市に向かうと、途中の左手に「一宮墓苑」に向かう道がある。この道を行き、一宮墓苑を通り過ぎ、さらに進むと、左側に「高藤山城址入口」という表示がある。

Photo_2この手前で車を止め、入口の「説明板」を読むと、

<高藤城は、高塔城、柳沢城の別名もあり、上総権介広常の居城という伝承がsる。上総地域の中央、一宮市街地の西方に位置し、天然の要害に手を加えた山城である。築城の年代は不明。標高約80mの頂上からは、北東に一宮城、北西に勝見城、遠く太平洋を望めることから、一宮周辺地域を眼下に広く捉える戦略拠点といえる。(中略)城の中心部は登山口から急な坂を登りきった山頂にあり、地形を利用した二つの曲輪(くるわ)と、西側下り傾斜の階段状の平場が続く所を含めた部分と考えられ、この他にも南に続く峰周辺の平場や、その先の尾根にも曲輪が確認できる。曲輪群のッ周囲には低い土塁が取り巻き、尾根の大部分は堀切(ほりきり)で断ち切っている。(以下略)>

と記されている。

この説明を読んだ後、いよいよ急な坂道を頂上に向かう。

2012年12月14日 (金)

一宮町にあった斎藤実元首相の別荘

Photo_3一宮町の一宮川の下流、船頭給に海軍大将・総理大臣を務めた斎藤実の別荘があった。

斎藤実は、安政5年(1858)に岩手県水沢で生まれ、明治10年(1877)に海軍兵学校を卒業して海軍軍人となり、明治39年(1906)から大正3年1914)まで第1次西園寺、第2次桂、第2次西園寺、第3次桂、第1次山本の各内閣で海軍大臣に就任した。

Photo_4大正8年(1919)には朝鮮総監となり、昭和7年(1932)に総理大臣に就任、同9年(1934)の帝人事件で内閣総辞職をした。

その後、同11年(1936)2月の「二・二六事件」で自宅で銃殺された。78歳。

Photo_5大正3年(1914)に一宮町新地に別荘を所有した。九十九里浜の海岸沿いに500坪の土地を、坪10銭で手に入れ、建築費も坪20円であったという。

この別荘は、明治31年(1901)10月に竣工したもので、海軍大臣を辞してから購入し、1年の大半をここで過ごした。

古い洋服に草履をはき、手拭を腰にぶら下げ、松の枝おろしや垣根など、ここでの生活は庭いじりが主であったという。ある時、地元の署長が、彼の姿を見て、「爺やさん」と呼んでところ、振り向いた顔を見て、大慌てに慌てたという逸話が残っている。

この一宮に別荘を所有していた関係で、近くの玉前神社には彼が奉納した扁額が掲げられている。

2008年7月17日 (木)

皇女和宮が降嫁の際に使用した駕籠~一宮町東漸寺(町指定有形文化財)~

P1010203 幕末の動乱期に「公武合体」により幕府の権力を回復させようと、文久元年(1861)10月20日(3月12日)、15歳の和宮が14代将軍家茂との婚儀のために京都を出発した。このとき、攘夷派の妨害を避けるため、東海道ではなく、中山道を経由して江戸に向かった。

その行列は、幕府からのお迎えが2万人、和宮の駕籠の警備に12藩、沿道警備に29藩、道中警備のために動員された町人・農民らを含めると20万人とか、数十万人といい、行列は50kmに及んだともいわれる。

和宮について、和宮が埋葬された増上寺の「徳川墓所」が国土計画興業に売却されることとなり、発掘調査が行われ、その『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』によると、身長が143m、体重が34kg、極端な反っ歯と内股が特徴であったと推定されている。また、左手の手首から先の骨が発見されず、増上寺にある和宮の銅像からも左手が不自然に隠れていることから、生前に何らかの理由で左手を欠損していたのではないかという説がある。さらに和宮の棺から直垂姿をした若い男性の写真乾板が副葬品として発見されたが、その後の保存処理が悪かったため、翌日に乾板はただのガラス板になっていたという。この男性は不明であるが、夫の家茂という説、あるいは許嫁の有栖川宮熾仁親王という説がある。

さて、和宮は、11月14日に無事に板橋宿に到着し、翌15日に江戸九段の清水邸に入り、それから約1ヶ月後の12月11日に江戸城に入った。

この和宮の降嫁の時に使用した「駕籠」が一宮町の三島山東漸寺(曹洞宗)に保存されて                         P1010206 いる。東漸寺は、元は東漸寺谷にあった三島神社の別当で、本尊が波切不動明王であったが、慶長17年(1612)7月に光室恵珍によって現在地(一宮字東院)に移され、曹洞宗の寺院として開山したという。

その後、文政12年(1829)12月18日に火災に遭い、全山が焼失したが、天保4年(1834)4月に本堂が再建されたといい、これが現在の本堂であるという。

一宮町一帯は、文政9年(1826)3月に加納久儔(ひさとも)が1万3千石をもって一宮本郷村に陣屋を構えて支配した(一宮藩)。

その後、文久元年(1861)に久徴(ひさあきら)が若年寄に昇進し、和宮の降嫁に際して使者役として警備に当たり、26日間の長旅を無事に果たした。12月に久徴は清水邸に呼ばれ、その労を労われ、お礼として和宮使用の駕籠を下げ渡されたという。

加納家では、この駕籠を家宝として大事に保管していたが、明治4年(1871)7月の廃藩置県の際して、この駕籠を東漸寺に寄進したという。その経緯については、東漸寺は加納家の菩提寺ではないが、当時の住職が加納家と親しかったことによるといわれている。                           

2008年2月 9日 (土)

皇女和宮愛用の駕籠が一宮町の東漸寺に

皇女和宮の愛用の駕籠が一宮町一宮字東院の東漸寺に保管されているということで、この寺院を訪ねました。

東漸寺は、山号が三島山といい、上宿に鎮座する三島神社の別当で、平広常が開基したといわれています。本尊が浪切不動明王で、もとは東漸寺谷にありましたが、慶長17年(1612)7月に光室恵珍により、曹洞宗の寺院として開山し、現在地に移転したといいます。

皇女和宮親子(ちかこ)は、徳川幕府が終局を迎えつつある文久2年(1862)2月11日(3月12日)に第14代将軍家茂(いえもち)の正室となりました。

この和宮は、弘化3年(1846)閏5月10日(7月3日)に仁孝天皇の第8皇女として生まれました。生母は観行院(典侍・橋本経子)。孝明天皇は異母兄に当たります。

嘉永4年81851)に和宮は、有栖川宮幟仁親王の長男である熾仁(たるひと)親王と婚約しましたが、岩倉具視らが推進する「公武合体」のために婚約を解消し、文久元年(1861)10月20日に徳川家茂との婚儀のため、京都を出発しました。随行したものは、朝廷側が約1万人、幕府側が約1万6千人で、攘夷派の妨害工作を避けるため、東海道ではなく、中山道を利用したといいます。

江戸に向かう和宮一行の警護には、幕府側から供奉総奉行として一宮一帯を治めていた加納駿河守久徴(ひさあきら。上総一宮藩第2代藩主。一宮加納家6代。若年寄。1万3千石)が派遣されました。

15才の和宮は、26日に及ぶ長旅を無事に終え、11月15日に江戸清水御殿(千代田区北の丸公園)に入りました。そして、この御殿で旅の疲れを癒し、12月1日に江戸城本丸に入りました。この和宮の一行には常に加納久徴が警護のために随行し、和宮が無事に江戸城に入城しましたたが、その後、久徴は和宮からその労のねぎらいを受け、豊後国長盛の刀1振と鞍鎧1具とともに自らが愛用した駕籠のお下げを受けたといいます。

和宮が家茂に降嫁することで、公武合体が完成し、和宮は大奥で、年寄の瀧山、本寿院(13代将軍家定の生母)、天璋院(篤姫。家定の正室)と過ごしました。いわゆる政略結婚でしたが、家茂と和宮は、歴代の将軍と正室の中で最も仲がよかったといわれています。また、江戸城内では武家の習わしで、将軍の正室を「御台所」と称していましたが、自らを「和宮様」と呼ばせたといいます。

慶応2年(1866)7月20日、家茂は第2次長州征伐の途上、突然、大坂城で死去しました。遺骨と上洛のお土産として所望した西陣織が和宮の元に届き、これを前にした和宮は、

<空蝉の唐織ごろもなにかせぬ 綾も君ありてこそ>

と詠い、悲嘆に暮れたといいます。以後、落飾し、「静寛院宮(せいかんいんのみや)」となり、同4年(1868)4月には江戸城が官軍に明け渡すこととなり、田安屋敷に移りました。後に勝海舟の家で天璋院と食事をし、仲よくなったといわれています。

明治10年81877)9月2日、療養先の箱根町塔ノ沢の環翠楼で波乱の生涯を終えました。享年32。死因は脚気衡心(脚気による心不全)とされ、墓所は芝増上寺の家茂の墓の隣にあります。

なお、和宮から頂いた駕籠は、廃藩置県の際に、加納家が東漸寺に寄進したといわれています。

2008年2月 1日 (金)

一宮城趾を訪ねて

1月31日に一宮町の史跡調査を行い、その中で一宮城趾を訪ねました。入口の「大手門」が復元されていますが、右手の公園は荒れ放題となっていますが、大手門の先には城を形取った(この城は中世の城であるため、この形は偽物)「振武館」が建てられています。

この城趾は、町の指定文化財となり、平成12年2月に町教育委員会が設置した「案内板」には、

<一宮城は天然の地形を利用した標高約三〇メートルの台地上にある要害の山城。築城時期は南北朝時代から一六世紀とされるが詳細不明。通称「城山(しろやま)」と呼ばれ、周辺には守護神としての寺院や神社が配置され、城に関する地名(城之内、追手、院内、陣屋、櫓前など)の残っている。

一宮城については、永禄五年(1562)九月に一宮城主内藤久長が館山城主里見義頼、万木城主土岐頼春、大多喜城主正木盛賢らに攻められて落城、あるいは同年七月に一宮城主糟谷大炊助が勝浦城主正木時忠、時通親子に攻撃され数ヶ月後に落城、また永禄八年二月から六月頃に落城、と諸説あり、史実は判然としない。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城した房総の四十八カ城の中で一宮城も本多忠勝ら数万の軍勢に攻められ、再び落城した。

文禄元年(1592)、本多忠勝の支配する大多喜領となった後、領主の変遷を経て、明暦三年(1657)には脇坂淡路守安元、また文政九年(1826)には加納遠江守久儔によって陣屋が作られたたが、明治維新によって取り壊された。>

と記されています。

最近のトラックバック

2015年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31